7月 24日(月) 津久井やまゆり園追悼式

衆議院での閉会中審査に首相が出席するとなった今日、相模原市では、グリーンホールで、津久井やまゆり園事件追悼式 が県・市・かながわ共同会によって開催されました。

事件が起こって明後日の26日で1年がたちます。19名の命が奪われた残酷で非道な事件であるにもかかわらず、今日も追悼式には、故人のお名前はありません。やはりこのことがしっくりこないし、1年のあいだに、様々な追悼の会や建て替えの説明会や、関係団体の方たちなどのお話をお聞きしてきた中で、本当に改めてなのだが、気づかされたことがあります。

重度の障がいを持っていても、その人の求める暮らし方はそれぞれに違うということ、基本は独立して、あるいは家族と一緒に暮らすことが可能なように支える仕組みを作ること―その暮らしを支えることができるようにサポートする体制を整備するのが、政治・行政の仕事である、という当たり前でシンプルなことなのです。

今日の追悼式、安倍首相の代わりに塩崎文科相が代読したことには少し驚きましたが、掛け声だけで中身がないのは相変わらず、という印象でした。首相も、知事も、市長も、共生社会をつくるーと言われましたが、なぜこんな事件が起きたのか、その責任が政治にあるとも、19名の命を守れなかったことにも言及していませんでした。そこに違和感をもってしまいます。

園長は、守れなかった一人ひとりの命に本当に詫びていましたが、詫びるべきは、政治の責任者だと私は思ってしまいます。容疑者の手紙などから容疑者が詫びていないのは、障がい者の命を奪った殺人を悪かったと思っていない、ということです。そんな考えをなぜ育ててしまったのでしょうか。この根っこがかわらないと同じことが起こる可能性が否定できません。

それぞれの地域に、障がいの重い人も、高齢者も、こどもも、肌の色が違う人もいていいのです。多様な人が多様な生き方をしながら、ゆるくいざ、というときにはお互い様に手をだし、口をだしあえる関係をつくっていけたらいいのではないか、と思いを強くするこの頃です。

 

 

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