6月 22日(日) 富岡製糸場の世界文化遺産登録

昨夜の夜のニュースで、富岡製糸場の世界遺産への正式決定、が流れてました。

数年前に、群馬県庁に製糸業関係の担当職が置かれていることを知って、お話を聞かせてもらいに行ったことをブログにも書いた気がします。あの担当職員の人は(今は部署が変わっているかもですがー)喜んでいるのでしょうね。

昨日のニュースでもかなり富岡市や群馬県が喜んでいる様子が報道されていました。以前は中にはまでは入れませんでしたが、今は見学できるそうですし、1度は見てみたいと思っている場所です。

私の世代(?)は、どうしても製糸場からは、山本茂実の「あゝ野麦峠」を連想します。そちらは、飛騨の少女たちが、長野県の岡谷の製糸場へ出稼ぎに行っていた明治から大正時代の事実を取材して書かれたノンフィクションです。1979年に映画になって、高校3年だった当時の私も、その年か、翌年かにたしか郷里の映画館で見たと思いますが、大竹しのぶ演じた主人公と兄役の地井武雄(だったか?)に重ねて、悔しさに泣けてしかたなかったことをよっく覚えています。

映画だけでなく、テレビドラマにもなって、主人公のみねさんは実在した方で、その妹さんも実際に同じように製糸場に出稼ぎに行き、最後はみねさんと同じく腹膜炎で亡くなったそうです。そして実際に若くして亡くなった工女たちの7割が結核だったという明治の統計があるそうですね。

今で言えば完全なブラック企業だったと思われる岡谷の民間製糸場とは違って群馬の富岡製糸場は、官制の「模範工場」として明治5年に操業開始だそうです。でもって、8時間労働の週休も1日あり、夏休み冬休みもあったとか、、当時としてはほかにないくらいの少女たちの労働環境だったのでしょうか。

それでも13~14歳の少女たちが働いていたことは間違いないのですが。それに、明治26年には、三井家に払い下げ、となり以後民間企業となるのですから、それからの労働環境はどうだったのか、と思います。今回の世界遺産登録は、4資産で一体的に評価され、養蚕農家、養蚕教育機関、蚕の卵を保管した風穴、との連携としてだとのこと。それはそれで、この建物の保管も含め、喜びたいとは思います。でも、もう一つ、あえて無粋でも言えば「絹産業を自動化・発展させ世界に返す」「高品質な生糸を量産化」を支えた中に、日本の殖産興業の最前線にいた、今なら小中学生にあたる少女たちが過酷な労働で居続けたことをやはり記憶していくべきと思うのです。

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